― 第三話・それぞれの事情 ―



 焦燥し切ったアイビーと、それを宥めているハルが、大人しそうな女の子を連れて所長室まで来た時、私はやっぱり助言を間違えたなと思った。

 連れて来られた女の子は、鼻にタオルを当てていて、その端に赤い染みが付着しているところを見る限り、これは鼻血だと思われる。
 私はとりあえず、自分の腰かけていた椅子を勧め、座ってもらった。タオルを数枚、余分に取ってきて、レイラと一緒に女の子の容態を見守る。

 その間、ハルとアイビーから、ぽつぽつと事情が語られた。
 連れて来られた子は何も関係のない一般市民なので、レイラを追っていた二人組みのことは伏せてあったけれど、それでも、大よその事情はよく わかった。
 頭から黒い布をすっぽりとかぶっていたので、不審に思ったアイビーが声をかけたこと。
 そうしたら、女の子は急に「帰る」と言って走り出してしまったこと。
 そして、それを阻止せんとし、普段は開け放たれている正面玄関を閉じたら、女の子が勢い余ってドアにぶつかってしまったこと――
 結果として、ハルの証言から彼女が昨日ペンダントを拾ってくれた人物だとわかり、女の子の疑いは晴れたのだけれど、善良な一般市民に早とち りで怪我をさせてしまったことは、「L&F」所員としてはいただけない。

「――始末書、減給、罰当番」
「慎んでお受けいたします……」
 ウェントの下した処分に、すっかり意気消沈してしまったアイビーが、弱々しい声で答えた。

「お前はいつまで経っても、暴走する癖が治らんのう……」
 ――ついでに、迷惑がっている相手に長話をするというウェントの癖も治らないけれど。
 とはいえ、今この場でそんな茶々を入れるほど、私も空気が読めないわけではない。しょんぼりと肩を落とすアイビーの背中を見つめ、彼女も今日は踏んだり蹴ったりだなと同情してしまった。
 でも今は、鼻から流血している女の子の体が心配だ。たかが鼻血といえど、侮るわけにはいかない。
「落ち着いた?」
「代わりのタオルなら、まだあるから、遠慮しないで言ってね」
「あ、ありがとうございます……」
 レイラが新しいタオルを渡して、私は汚れたタオルを回収する。お礼を言ってくる女の子に、私は笑顔で「気にしないで」と返した。
 したたかに打ちつけたであろう彼女の鼻は、まだ赤かったけれど、出血自体は大分収まってきているらしい。私が汚れの少なくなったタオルをたたんで腕にかけていたら、女の子はおもむろに口を開いた。

「あの……私は本当に大丈夫です。昨日も同じように鼻血が出て……弱くなってただけなんです。そもそも、ちゃんと前を見ていなかった私の不注 意ですし――それに、あの格好……怪しいですよね……」
 いたたまれなさそうにそう言う女の子に対して、けれど、みるみる内にアイビーの目には涙が溜まる。アイビーは、がばりと勢いよく女の子に抱きつくなり、わっと泣き出してしまった。
 女の子の傍に立っていた私は、レイラと一緒にちゃっかりと横に動いてそれを避ける。

「私はこんな子になんてことをををを〜っ! 違うの! 私が悪いの! ごめんねえええ〜!!」

 暴走癖はあるけれど、アイビーは根がまっすぐな優しい子だ。冗談などではなく、本気で申し訳ないと思って泣いている。
 そんなアイビーに抱きつかれた女の子はちょっと困惑気味だったけれど、ウェントの一言で事態が変わった。
「ところで、今日は何をお探しだったのかの?」
「そうよ! こうなったら、全力で探すわ!! モノは何!? 財布!? 帽子!? ぬいぐるみ!? 時計!? 指輪!?」
 未だ瞳に涙をたたえたまま、女の子から身体を離したアイビーの口から、すらすらと出てくる言葉。相当、長いこと「L&F」で働いているだけあってプロだなと、私はあらぬところで感心してしまった。

 ――けれど、私は知っている。
 彼女の探し物は、そのどれでもなくて、ましてや、それは彼女自身が自ら――「落し物」と偽って、ハルに手渡したもの。
 あの時――ファデスがきつく握りしめていた、金色のプレート状のペンダント。

「えっと……」
 女の子が戸惑いながら、窓際でじっと様子をうかがっていたハルをちらと見やる。ハルもそれに気づいたようだったけれど、そこで、所長室のドアをノックする音が響いた。
 ドアが内側に開いて、「L&F」の女性所員が顔を出す。
「失礼します――お取り込み中、すみません。今、カウンターに人捜しの方がいらっしゃってます。エレノア・エリソンという方はいるか、とのことですが……」
 それにいち早く反応したのは、連れて来られた女の子だった。
「! 私が、エレノアです。今、行きます!!」
 自分をさがしている人物に心当たりがあったのだろう。慌てたように立ち上がる彼女――エレノアに、アイビーが驚いたように目を丸くした。
「すぐに動くと身体に障ろう。こちらにお通しし――」
「大丈夫です!」
 ウェントの言葉も遮って、エレノアは深々と頭を下げる。

「ありがとうございました!!」

 それだけを言い残して、エレノアは慌ただしく所長室を出て行った。
 ――とはいえ、そこで「はいそうですか」と黙って見送るほど、ハルたちは放任主義でもない。
「……私、エレノアが心配だから、ちょっと見送りに行って来る」
「あ、俺も」
「私も行くわ」
「あたしも」
 タオルを適当な場所に置きながら、私が言えば、次々と上がる声――そんな心配性でお人好しな彼らが、私は本当に大好きだ。
 みんな良い人たちばかりだと、改めて実感したものの、のん気にしている場合でもない。私はウェントに軽く頭を下げて、駆け足でエレノアの後を追った。

 そうして、エレノアを追いかけてきた私たち四人と、受付係の仕事をこなしていたファデスがカウンター越しに見たのは、エレノアが初老の女性に日傘の先端で腕を叩かれる瞬間だった。

「全く――久々に様子を見に来てみれば、遊び回ってばかり。どこへやっても、進歩しませんね」
 身なりのいい女性が、エレノアを蔑むような目で見下して言う。
「修道院の手伝いすら、まともにできないなんて」
「……すみません」
 俯きがちに謝るエレノアを見て、女性はため息を吐いた。

「――血は争えないわね」

 その瞬間、私はエレノアの表情が硬くなるのを見た。

「さあ、私は屋敷へ帰ります。見送りくらい、きちんとなさい!」
「は――はいっ」
 さっさと歩き出す女性の後を追い、小走りに「L&F」を後にしようとしたエレノアは、最後にもう一度こちらに向かって一礼をし、今度こそ本当に去って行った。

 そんな様子を裏へと続くドアの隙間から黙って見ていたハルが、ぽつりと呟く。
「な……なんだ、あのババア……!!」
 ハルの表情は、いつになく引きつっていた。
「昨日も鼻血出たっていうのも、あのババアが殴ったからじゃないの!?」
 レイラがそう言ったとたん、ハルははっとしたように、アイビーを見る。
「アイビー! これは放っておけないだろ!!」
「ええ! 今すぐ、あのババアを――」
 そこまで言いかけて、アイビーの言葉が不自然に途切れた。かと思えば、アイビーはその場に小さくうずくまって、
「――無理よ。私、だめ所員だもん……」
「ア、アイビー……」
 先刻の失態を引きずっているんだろう。どんよりとした暗い空気をまとったアイビーの足元に、きのこが生えているように見えるのは、幻覚だろうか。
 とにかく、アイビーを慰めようとレイラと一緒になってその頭を撫でていたら、ふいに受付係のファデスが言った。

「実際、どうしようもない」
 と、こちらには一瞥もくれず、何かの本に目を落としながら、続ける。
「ロスファンで扱う問題じゃない。関わっても、ろくなことにならない」
 淡々と、抑揚のない声で紡がれるのは、取りつく島もないように聞こえる言葉だった。
「でも……!」
「あなた、今の見てなんにも感じないの!?」
 ハルの声を遮る形で、レイラが強い目でファデスをまっすぐに見る。ほんの一瞬だけ、ファデスの青い瞳がレイラを映した。
 でも、すぐにその瞳はそらされる。
「…………別に、他人の家庭に口を出す趣味はない」
 レイラが厳しい顔つきでファデスを見つめる中で、ハルとアイビーは少しだけ違う表情をしていた。



 その後は、レイラの機嫌が急降下だった。
 主に、そのイライラの原因は二つ。エレノアに暴力を振るった女性についてと、それに対するファデスのあまりに素っ気ない態度についてだと思われる。

 前者は言うまでもないけれど、後者への結論に至った経緯は、割と単純だった。

 それはお昼時。珍しく休憩時間が、かち合ったファデスと一緒に昼食を取っていた最中のこと。
「ファデス、おいしい?」
 私が何気なく食事の感想を聞いてみたところ、ファデスは食事の手を止めて――とたん、私のとなりに座っていたレイラががたりと大きな音を立てて席を立った。
「イツキ! ごちそうさま!!」
「へ? あ、ああ、うん……お、おそまつさま」
 なぜだか、ものすごい形相で「ごちそうさま」と言われ、戸惑いながらも私は空になった食器をレイラから受け取る。
 それから、再びファデスに向き直って、
「あのね、今日は――」
「イツキ! やっぱり、おかわり!」
「え、あ、うん、わかった――ごめんファデス、ちょっと待ってて」
 そう言って私はキッチンへと向かい、皿におかわりをよそった。そして、それをレイラに渡した後、改めて口を開く。
「今日、アイビー色々あって大変だったでしょ? だから、少しでも元気出してもらおうと思って、アイビーの好きな物を作ってみたんだけど――」
「……悪くない。喜ぶと思う」
「そっか、よかった。ファデスのお墨つきなら、安心して――」
「ねえ、イツキ! あたし、イツキのお話、もっと聞いてみたいんだけど!」
 ――こうも何度も言葉を遮られれば、いくら勘がいいとは言えない私でも、なんとなく察しがついた。
 レイラは、ファデスに対して怒っているのだと。ついでに言うなら、私がファデスと話したりするのが気に入らないのだと。
 なのに、ここまで、むき出しの感情をぶつけられても、ファデスのその表情は微動だにしない。
 まるでいつもと同じように、風が吹いたのをただ感じているだけかのように、全く変わらない。鉄面皮ってこういうのを言うんだろうな、と明後日なことを考えた。

 そして、その日。レイラは一日中、私にくっついていた。
 ファデスと少しでも接触があろうものなら妨害しようとし、それができなければ、むすっと黙り込んでしまう。
 その度に、私はレイラのご機嫌取りをしなくてはいけなくて、まるで、やきもち妬きの妹ができた気分だった。手は焼けるけれど、なんだかちょっぴり嬉しいような、そんな気持ち。

 けれども、エレノアが「L&F」を訪れてからというもの、私はどうもファデスのことが気になってしかたがなかった。
 ひょっとしたら、彼の中で――あのペンダントや、それを探しに来たエレノアの存在が影を落としているのではないかと。何か、一人で抱え込んでしまっているのではないかと。
 ――正直、こればっかりは、私に口を出せることじゃないというのは、よくわかっている。
 それでも、今のファデスを一人にしておくのは、なんとなく心配だった。些細なきっかけで、どこかが壊れてしまいそうな――硝子や氷のような脆さを感じる。

 いつだって、ちっともつらそうな表情を見せないから――なおさらに。

 ――だからといって、慕ってくれるレイラを蔑ろにするのも嫌で、
「困ったなあ……」
 自室のベッドで横になりながら、ぽつりと呟いた言葉は、夜の静寂にかき消えていった。





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