― 世界の落し物 ―



 ――なんの前触れもなかった。
 突然の浮遊感に襲われたと思ったら、私の身体は見慣れた日常の景色をすり抜けて、文字どおり、落ちていた。鈍い衝撃と共にしりもちをついた先は、見慣れない異国風の街。
 一体全体、何が起きたのか、私には全くもってわからなかった。
 豆鉄砲を食らった鳩のような気分で、ぽかんと仰いだ空の向こう。ぼんやりとかすむ見慣れた景色が――「世界」が、遠ざかっていく。私をどことも知れない街の路地裏に残して、私を「落とした」ことにも気づかないで、「世界」はいずこかへと立ち去っていく――
 置いていかれる。そう思ったのは、半ば直感。
「――ま、待ってよ!」
 私は空へと叫んで、慌てて手を伸ばした。
 だけど、そんな私の目の前で、「世界」はまるで蜃気楼か何かのように、ふっと掻き消えて――
 残された私は、冷たい石畳に座り込んだまま、ただただ呆然とすることしかできなかった。

「君、大丈夫?」

 ほとんど茫然自失状態だったから、そう声をかけられたのが、それからどれだけ経った頃かわからない。
 気がつけば、すぐ目の前には腰まである金髪の青年が立っていた。空のように澄んだ色の瞳が、こちらを心配そうに見つめている。
 空色の瞳に映る自分の姿は、まるで目の前で消えた「世界」のように不確かで、今にも消えてしまいそうだった。
 ――この瞳の向こうに、私の「世界」はあるだろうか。
 私は知らない内に下りていたその手をまた伸ばす。すると、青年は座り込んでいる私の目線に合わせるように屈み込んだ。
「えっと、俺はロスファン所員なんだ。もし、何か困っていることがあったら――」
「……ロスファン?」
 どこかで聞いた覚えのある言葉にきょとんとする。
「え? あ、ああ、ロスファンっていうのは、ロストアンドファウンドの略称で――たしか遺失物の取得を任されてるんだけど、エミン・ヒルではなんでも相談所みたいになってるところ、かな……?」
 なんだか少し自信なさそうに、青年が言った。よくよく見れば、腕のところに「L&F」と刺繍された腕章をつけている。
 それを見て、私はふと思い出した。そうだ、あれは、たしかとある創作サイトの――

「じゃあ、ここは、」

 ――あの『Lost and Found』の世界?
 ぽつりと、小さな声で呟いたそれは、幸か不幸か、目の前の青年の耳にまでは届かなかった。

「ごめん、なんて言ったか聞こえなかっ――」
「――どうしよう」
「え?」
「私、“世界”に“落とされた”んだ」
 ひょっとしたら、「捨てられた」のかもしれないし、本当に「落とされた」だけかもしれない。
 ただ、その時の私にわかったのは、自分が世界規模の遺失物――「落し物」になったということだけだった。

 その一方で、私の発言に対する青年の反応は至極真っ当だった。

「は?」

 素っ頓狂な間の抜けた声をあげて、今度は青年がぽかんとする。
 だけど、それきり、私がうつむいて黙り込んでいれば、青年は困ったように頭をかいた。そして、目の前にすっと手のひらが差し出される。
 顔を上げたのなら、青年は日の光に金色の髪を輝かせて立っていた。
「なんかよくわからないけど、困ってるんだろ? 俺でよかったら、力になるよ」
 そう言って微かに細められる青い瞳。
 ――優しげなその瞳の奥に、私を置き去りにした『世界』の面影を見たような気がした。
 無意識の内に差し出された手を取ると、男の人らしい強い力で手を引かれる。その動作に合わせて揺れた黄金色の髪から、不思議とお日さまの香りがした。
「俺はハル。ハル・ブランデンっていうんだ。君は?」
「――イツキ」
 名乗り返した「名前」は、静かに『世界』へと響き渡った。



 「Lost and Found」――英語でそうつづられた看板。それを見ながら、私はハルの後を追いかけて、「そこ」へと足を踏み入れた。
「お帰りなさい、ハル。一人での巡回はちゃんとできた?」
 中に入るなり聞こえてきたのは、快活そうな女の子の声。
「ああ、うん、まあ、一応――それより、アイビー。話したいことがあるんだけど……ちょっといいか?」
「? 別にいいけど……何よ、急にかしこまっちゃって」
「ほら、イツキ――」
 振り返ったハルに促されて、ちょうどその背に隠れるようになっていた私はひょっこりと顔を覗かせた。
 すると、アイビーと呼ばれた女の子が私に気づいて、きょとりと目を丸くする。
「あら? どうしたの、その子」
「いや、うん、それが、その、なんというか――」
 問われて、ハルが口ごもった。
 ここへ来るまでの間、ハルにはおおよその事情を話したのだけれど、やっぱりというべきか、ハルには理解し難い話だったんだろう。それは別にハルの頭が残念だとか断じてそういうことではなくて、単純に私の置かれた状況があまりにも特殊すぎたせいだ。
 ハルが答えをさがしあぐねているのを見て取ったアイビーは、すぐに質問の対象を本人である私へと切り替えてきた。
「見慣れない服装だけど……観光に来た人? もしかして、何か落としたとか?」
「いえ、違うんです」
 と、そうかぶりを振って――そして、その日、私は「L&F(ロスファン)」にて爆弾発言を投下する。

「私が、“落し物”です。落とし主は――“世界”」

 ふざけているとしか思えない内容の台詞を真顔で言ってのけた私に、アイビーがハルと同じような反応をしたのは、言うまでもない。

 ただの悪戯か何かだったというのなら、ハルやアイビーだって困惑せずに済んだだろうに、残念ながら私は大真面目だ。
 遺失物が自ら名乗り出てくるという異例の事態と、落とし主が人間という規模におさまらないというこれまた異例の事態が重なって、ハルとアイビーは、これは自分たちだけの手に負える問題ではないと考えたらしかった。

 ――私は今、「L&F」の所長室にいる。

 壁の本棚には分厚い本が何冊も並んでいるけれど、背表紙につづられている文字は全て英語で、私には漠然とした内容しかわからなかった。
 部屋のあちこちに並ぶのは、アンティーク風の雑貨や家具。最も、『こちら』ではこれが当たり前なのだろうから、アンティークと呼ぶのも、何か間違っているような気がしないでもない。

 部屋の隅には、ハルとアイビー、そして銀髪の青年が立って、じっとこちらをうかがっている。
 そんな中、私は椅子に腰かけて、一人の老人と向かい合っていた。
 白く長い眉毛とひげですっかり顔を覆われているのに、その顔はしっかりとこちらを向いている。あれでよく前が見えるものだと、どうでもいいところで関心してしまった。
 ――犬で例えるなら、オールドイングリッシュシープドッグ。でなければ、ヨークシャーテリアか、そこらへんだと思う。
 そんな失礼なことを考えていたところ、おもむろに老人は膝の上で手を組んだ。
「わしは、ここ――エミン・ヒルにあるロストアンドファウンド所長のウェント・ローウェルじゃ。お前さんはたしか、イツキといったの」
「はい」
 私が頷くと、老人――ウェントはゆったりとした口調で続けた。
「ハルとアイビーの話によると、イツキは“世界”の“落し物”だそうじゃが――詳しい話を聞かせてもらえるかのう」
 無言で、もう一度だけ頷く。
「正直、私もよくわかっていないんですけど」
 と、前置きすれば、ウェントは「わかる範囲で構わんよ」と穏やかな声で言ってくれた。少しだけ、肩の力が抜ける。
 そして、私はぽつぽつと語り出した。

 急に奇妙な浮遊感に襲われたこと。そうしたら、見慣れた景色をすり抜けて、「落ちていた」こと。「落ちた」先は、エミン・ヒルの路地裏だったということ。
 ついでに言うと、自分のいた『世界』には、「L&F」なんて組織は存在しないこと。さらに言うなら、魔法なんてものも存在しないこと。それから――

「ふむ。だとすると、イツキは“異世界”の人間、ということになるのう」
 私の説明を聞いていたウェントが、ふいにそんなことを呟いた。
「“異世界”って……」
 突拍子のない話に、ハルが目を丸くしてその言葉を繰り返す。
 と、それまで壁に背中を預けてじっとしていた小柄な青年が、大して驚いた風もなく口を開いた。
「別にあり得ない話じゃない。僕たちが使う魔法も、別の次元から召還した精霊の力を借りたものだからな」
「――ファデス」
 そうハルに呼ばれた銀髪の青年は、淡々とした口調で語った。
「この世界には、平行世界という概念がある。いくつもの異なる世界が、同時に存在するという考え方だ」
「それじゃ、イツキはその内のひとつの世界から“落ちてきた”ってことか?」
「さあな」
 ハルが問えば、ファデスは涼しげな顔をしてひらりと言葉をかわした。
「さ、さあなって……」
「あくまで僕が言っているのは、あり得ない話ではないということだけだ」
 言うだけ言って、話は終わったと言わんばかりにファデスは目を閉じる。髪と同じ色をした長いまつ毛が、白い肌に影を落とした。
 ハルはハルでわかったような、わからないような顔をして黙り込む。
 私がその様子を見ていたら、アイビーがためらいがちにウェントへと声をかけた。
「それで、所長――イツキは――」
「うむ」
 頷いたウェントは、特に何を悩む素振りも見せずに言い放つ。

「落とし主が、“世界”であれ、なんであれ、イツキが“落し物”であるのなら、うちで面倒を見るまでのことじゃ」

 ――そうして、「Lost and Found」に、“世界の落し物”が住み着くようになった。






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