― ポケットの中の世界 ―



 ひととおり街を回って「L&F」に帰ってきた頃には、すっかり朝食という時間には遅くなっていた。
 私は仕事があるというアイビーと別れてから、部屋に荷物を置きに行き、足早に食堂へと向かう。そしたら、そこにあったのは、男の人にしては小柄な人影で――

「――ファデス?」

 思わず、その名前を呟いたら、こちらに背を向けていた華奢な青年が振り返る。長い前髪のせいであまりよくは見えないけれどその顔は中性的で、背格好も含めてみると少年にも少女にも見えた。
 海のような深い青色をした瞳が動いて、私を映し出す。
「……お前か」
 なんだか、ずいぶんなご挨拶をされたような気がするけれど、それはそれ。
 アイビーと同じく「L&F」で働いている彼が、どうして今ここにいるのだろうか。「L&F」の閉館時間なんて知らないけれど、まだまだ日は高い。仕事をしていないほうが、おかしな時間帯だというのに。
 疑問に思いながら、まじまじとその姿を見つめていると、その手が持っているものに気がついた。

「あ、それ……」
 アイビーに街へ連れ出され、食べかけになっていた私の朝食――
「口に合わなかったのなら、無理に食べなくていい」
「え、いや、別に、そういうわけじゃ……」
 ――アイビーの強制連行で、食事を食べかけのまま放置することになっただけであって、料理が口に合わなかったとかなんてことは、断じてない。
 けれども、私の言葉を聞いているのかいないのか、ファデスは魚の乗った皿を持ってキッチンへと足を向けた。
「今度からは残すならここに捨てろ」
 そう言って、ファデスが手にした皿を傾ける。ずるり、とゴミ箱へと向かって落ちていこうとする食べかけの魚。

 ――もったいない。
 その言葉が頭に浮かんだ瞬間。日本人の貧乏根性と、空腹感が私を突き動かしていた。

「っ! お願いします! それ、食べさせてください!」

 人気の少ない空間に、私の声が無駄に大きく響く。
 突然の大声に驚いたのか、ファデスの動きは止まっていた。
 そして、しばしの沈黙。
「わかった」
 と、言葉少なく了承し、ファデスは料理ののった皿を水平に戻した。
 食堂へと戻ってきたファデスの手により、ことん、と再びテーブルに置かれる皿。その横にナイフとフォークを添えると、ファデスはそこから少し離れた席に座った。小脇に抱えていた本を開き、そのまま読書を始める。
 私はその一連の動作を眺めて、おずおずと食事の置かれた席についた。音をたてないようにナイフとフォークを握り――ファデスを見やる。
 伏せられた長いまつ毛の下で、青い瞳が本につづられた文字を追って動いていた。
 ハルも整った顔をした美青年だったけれど、ファデスはそれとはまた少し違った雰囲気の美青年だと思う。

 ――ああ、美人って、本当に何をやらせても様になるから羨ましい。
 なんて明後日なことを考えつつ、私は本のページをめくったファデスに声をかける。
「……ええと、仕事は……?」
「休憩時間だ」
「あ、なるほど……」
 本から顔を上げることもなく、返ってきた簡潔な答えに、私は妙に納得した。
 ――それにしても、休憩時間にまで本を読むなんて、ファデスはよっぽど本が好きらしい。
 一体、何の本を読んでいるのか気になったけれど、そう長くはないだろう休憩時間を割かせるのも悪い。私は読書の邪魔にならないよう、細心の注意を払って遅すぎる朝食を静かに再開した。

 見たこともない魚の香草焼きを、ナイフとフォークで切り分けて口に運ぶ。香草の香りと、白身魚のあっさりとした味が口に広がって、知らず知らずの内に頬が緩んだ。
 冷めてもこんなにおいしいのだから、できたてはもっとおいしかったんだろう。そう思うと、少しだけ残念な気持ちになった。

「食べ終わったか」
 私がナイフとフォークを並べて皿の上に置いた時、ふいにファデスが口を開いた。
「食器は僕が片づける。お前は好きにしてろ」
「え……あ、ありがとう」
「――今日の当番だからな」
 お礼を言ったら、抑揚のない口調で静かに返され、私は彼がここで本を読んでいた理由にやっと気がついた。
 どうやら、ファデスは食器を片づけるために、わざわざ、私が食べ終わるのを待っていてくれたらしい。
 椅子から立ち上がったファデスが、食器をさげる。白くて細いその指を見て、場違いにもきれいだなと思ってしまった。

「あ……ごはん、おいしかったよ。ごちそうさまでした」

 空になった食器を手にキッチンへと向かう背中に向かって、そう笑いかけると、ファデスが立ち止まる。
 ちらりと私を振り返った後、彼はそのまま何も言わずにキッチンへと姿を消してしまった。



「“母から与えられた硝子の鈴が、涼やかな音をたてて砕け散る。無数の細やかな欠片と共に、まばゆいばかりの光の粉が宙を舞った。光の粉は彼の者の目を焼き、細やかな欠片は彼の者の身を切り刻む――”」

 ふいに思いついた「物語」を手帳に記して、それをぼそぼそと読み返す。
 さて、ここから先をどうしようか。そう考えつつ、くるくるとシャーペンを回していたら、高すぎず低すぎない声が耳を打った。

「まだ、ここにいたのか」

 振り返れば、食器の片づけを終えたらしいファデスが、まくり上げていた袖を直しながら立っている。
 食事を終えたのに、未だに食堂に留まっていた私は頷いて答えた。
「うん、好きにしてろって言われたから」
「そうか」
「うん、そう」
 本音を言うのなら、ファデスに迷惑をかけておいて、さっさと自室に切り上げるのは、なんとなく忍びなかった。
 どうせ、本人はそんなことは気にしないだろうし、ただの自己満足でしかないとわかってはいたのだけれど、せめてファデスが食器を片づけ終えるくらいまでは待っていようと、そう思っていたのだ。
 ともあれ、ファデスは食器の後片づけを終え、私がここにいる理由もなくなってしまった。
 あまり、あちこちをうろうろとして、他のみんなに迷惑をかけるのもよくない。自室に戻って「話」の続きでも考えようかと思った時、ファデスが口を開いた。

「――今のは、お前の世界にある童話か何かか?」
「は?」

 問われて、ぽかんとした私を、ファデスは相変わらずの表情のない顔で見ている。
 ひょっとすると、見る人が見れば、何がしかの感情を読み取れるのかもしれないけれど、生憎と昨日ちょっと顔を合わせただけの私にはさっぱりだった。
 一体、何を考えてそんなことを言い出したのかと首を傾げたものの、やっぱり、私にわかるわけもない。しかたがないので、とりあえず、質問にだけは答えておこうと思った。

「ついさっき、突発的に思いついた話だけど……それがどうかした?」
「いや――聞いたことのない話だったから、少し気になっただけだ」
「ああ、そっか……じゃあ、これ書き終わったら、ファデス、読んでみる?」
 なんの気もなしにそう言ってみたところ、なぜか、そこでファデスが黙り込んだ。
 とたんに静まり返る食堂内。
 ――え、あれ? 私、なんか変なこと言った?
 内心、少し冷や汗を流していたら、ファデスはどこか考え込むような素振りを見せて、一言。

「……お前、この世界の文字は書けるのか?」

 至極最もなことを言われ、私は沈黙した。
 基本的に使われているのは英語のようだけれど、母国語で書き出した「物語」をそれに翻訳できるかといえば、答えはノー。
 黙りこくった私に、けれど、ファデスは口を開いて、

「それなら、僕が代わりに書こう。イツキは、その手帳に書いてあることを読むだけでいい」

 ――知らず、私の目が丸くなった。
 だけど、そんな私の様子に気づいていないのか、ファデスは時計を見ると、テーブルの上に置いてあった本を手に取った。
「僕は仕事に戻る――書き終わったら声をかけてくれ。仕事中でなければ、いつでもいい」
 そう言い残して、ファデスが食堂を出て行く。
 一方で、残された私は、ただただぽかんとして、その姿が消えた方角を見つめていた。

「……すごい、初めて名前呼んでくれた」






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