― 世界と読み手 ―



 「物語」の構成をまとめながら、丁寧に、時には勢いに任せて文字をつづる。おおよその話がまとまったところで、私はシャーペンを置いた。

 気づけば、とっぷりと日も暮れていて、これでは部屋の中が丸見えだと、私は慌てて開けっ放しだったカーテンを閉めた。そして、ふとベッドの上に置いたままにしていた紙袋に目が留まる。
 もう夜になるけれど、せっかく、アイビーが買ってくれたのだから、少しくらい着てみようかな。と、そんなことを思いながら、袋を手に取った。
 ――この際、遺失物の管理費から引いてきたお金で買ったということは、極力考えないでおく。
 私は紙袋から取り出した衣服をベッドに広げ、着替えを始めた。



 ――そろそろ、「L&F」も閉館している時間だろうか。
 そう考えて私が部屋を出てみたら、角から歩いてくる誰かとぶつかりそうになった――のだけれど、こちらに気づいた相手が動きを止めるほうが早かった。部屋の明かりに照らされて、つややかな金糸が光る。
「っと……イツキ?」
「あ、ハル」
 ぶつかる寸前で動きを止めたその人の名前を口にすれば、ハルは私を見て目を瞬かせていた。
「イツキ、その服……」
「これ? 今朝、アイビーが街の巡回ついでに選んでくれたんだよ」
 両手でエプロンドレスの端をつまみ、少しだけ持ち上げてみる。『あちら』ではあまり着ないものだったから、自分がそれを着ていると思うと、妙な違和感があった。
「やっぱり、似合わないかな?」
「いや、そんなことはないよ。似合ってると思う」
 好青年らしい笑みを浮かべて、ハルが言う。こうもさらりと言われると、なんだか、ちょっと照れくさかった。
「そ、そうかな……ありがとう」
 私がはにかむように笑えば、ハルは一瞬だけ、きょとりとして、それからまたすぐに笑った。
「イツキ、やっと笑うようになったな」
「え?」
「心配だったんだ。昨日は、ずっと緊張してるような顔してたからさ」
 ――さすがは、主人公。見ているところは見ているらしい。
 安心したような様子で細められる空色の双眸は、ひどくやさしい。それを見ていたら、どうしてか、少しだけ泣きそうになった。
 だけど、こんなところで泣いたりしたら、ハルを困らせるだけだ。
 私は顔を隠すように、ハルに背を向ける。エプロンドレスの裾が、ふわりと揺れた。

「不安、だったんだ」
 努めて明るい声を作って、私は言った。
「ハルに出会って、手を差し伸べられて、“世界”に“落とされた”なんて真面目に言っておいて、本当はちょっと――不安だったんだ」

 ――『世界』に「落とされた」瞬間から、私は一人だった。

「この世界のこと、なんにも知らないし、頼れるものなんて、なんにもないし」
 世界規模の遺失物だなんて言ったところで保護してもらえる確証はなかったし、よしんば保護してもらえたとしても普通じゃない私の存在を認めてくれるのかどうか、不安だった。
 でも、ウェントが私を「L&F」で面倒を見ると言ってくれ、アイビーが日用品をそろえるために街へ連れ出してくれて、あのファデスだって名前を呼んでくれた時、私はたしかに、ここに存在しているのだと思えた。一人なんかじゃないのだと、そう思えた。

 今は意味をなさない明り取り用の大きなガラス窓を仰ぎ、私はその向こうに広がる夜空を見つめた。
 ――あの時、私を置いていった『世界』の姿は、どこにもない。
 そこでは、昇ってきたばかりの月が、ただただ静かに淡い光を降り注いでいるだけ。
 ハルに背を向けたまま、私はその光に目を細めた。

「正直、まだ不安はあるよ」
 『あっち』に残してきた家族や友達のことだって、気にならないわけじゃない。「私」という存在の欠けた『世界』で、どうしているのか――心配をかけてはいないだろうか――思うことはたくさんある。でも、私にとっての一番の不安は、
「“世界”が、私を“落とした”ことに気づいてくれるのかって」
 『世界』にとったら、ちっぽけな「私」という存在。「私」がいてもいなくても、なんの支障もなく、『世界』は回り続けているだろう。
 そして、そう思った時に、必ず考えてしまう――ひとつのこと。
「――ひょっとしたら、“落とした”んじゃなくて、“捨てられた”んじゃないかって」
「……イツキ」
「でも、寂しくはないんだ」
 気遣わしげに名前を呼んでくる声に、私は笑ってハルを振り返った。

「ここには、みんながいるし――みんな、大好きだから」

 ――そう、ずっとずっと大好きだった。こうして出会うよりも、ずっと前から。
 そして、未だに出会っていない人たちも、みんなひっくるめて、大好きだから。

「だから、少しだけ、感謝してるんだよ。“世界”が私を“落として”くれたこと」
 ちょっと不謹慎かな。なんて、そんなことを呟くようにつけ加えて、私はまた笑った。

「ところで、ハルはなんでここにいるの? ハルの部屋ってこっちじゃないよね」
 むしろ、どっちかというと、反対の方向だったような気がする。
 私の問いかけに、なぜか、ハルはぽかんとした。
「へ? ……あっ、そ、そうだった。俺、アイビーに頼まれてイツキを呼びに来たんだよ、食事ができたから――」
「イツキ――っ!!」
 ハルが言いかけた言葉を遮るように響いた、アイビーの声。かと思ったら、私は彼女の腕の中にいた。
「ア、アイビー……?」
「なんて健気なの! 私も、イツキのこと大好きよ!」
「え、何、いきなり、どうし――」
 嬉しいし、なんか役得なポジションにいる気がするけれど、アイビーは一体どうしてしまったのか。半ば困惑していたら、アイビーが飛んできたほうから、二つの人影が歩いてくる。
「ウェントさん? それに、ファデスも――」
「何、ハルが戻ってくるのが遅いのでな、少しばかり様子を見に来たのじゃよ」
「……食事が冷める。早くしろ」
 相変わらず表情のうかがえないウェントの後ろを歩いていたファデスが、ぶっきらぼうに言った。どうやら、食事ができたからと、わざわざ呼びに来てくれたらしい。
 けれど、その一方でファデスは私と目を合わせようとしない。不可解――というほどでもないけれど、ファデスの目はあらぬところを見つめていた。

 ――もしかして、

「あー……みなさん、今の会話、聞いちゃってたり……?」

 アイビーの腕の中、おそるおそる口を開いたら、それにひょうひょうと答えたのは、ウェントだった。
「うむ、みんな大好きとかなんとか、そう言っておったのう」
 ――なるほど、それでアイビーも「大好き」だなんて言い出したのか。ファデスが目を合わせてくれないのは、いきなりの「大好き」発言に驚いているからかもしれない。
 昨日の今日に会った人間だし、「大好き」だなんて言われたら、それは困惑くらいするんだろうなあ。などと、他人事のように考えていたら、なんだか段々と恥ずかしくなってきた。しかも、ハルに対しては面と向かって「大好き」と言ってしまったわけで――
 みるみる内にゆでだこになる私を、ウェントが笑いながら見ている――ような気がした。眉毛とひげのせいでわからないけど。

 私はしばし沈黙した末、自棄になった。
 アイビーをぎゅっと抱きしめ返し、顔を上げ、ひとりひとりの顔を見る。

「アイビーも、ファデスも、ウェントさんも――ハルも、私は、みんな、大好きだから!」

 開き直り、ありったけの声でそう宣言して、私は逃げるように食堂のある方へと駆けていった。
 ――だから、その後、取り残された彼らがどんなことを思って、どんな行動を取ったのかは知る由もない。

 「Lost and Found」――失くして、出会ったのは、決して手の届かない場所にいた人たちでした。






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