― 第一話・始まり ― |
食事を終え、食器の後片づけをした後は、私は誰かしらに声をかけて、エミン・ヒルの街へと繰り出す。
その日、たまたま私が声をかけたのは、「L&F」の開館作業を手伝っているハルだった。 「ハル、私ちょっとそこらへんを散歩してくるから」 「ん? ああ、そっか。もうそんな時間なんだな。迷子にならないよう、気をつけてな」 「わかってるよ」 ここへ来て未だ日の浅い私は、うっかりすると、迷子になりかねない。私はハルの忠告に、苦笑を返して「L&F」を後にした。 ――近頃では、この食後の散歩が私の日課になりつつある。 異国――というか、『異世界』――の街並みは、何度見ても見飽きない。晴れの日、曇りの日、雨の日――エミン・ヒルの街並みは、日毎に表情を変えて私の目を楽しませてくれた。街の高台から見下ろせる、なだらかかな丘陵も、そこにこんもりと茂る緑の森も、私にとっては新鮮そのものだった。 ――時折、灰色のビルが立ち並ぶ景色を恋しく思うこともあるけれど、こういう景色も嫌いじゃない。 みんなが「L&F」で働いている間に、細々としている創作活動にも、この街の景色は色んな影響を与えてくれた。 今日はどんな新しい発見があるだろう。小さな子どもが見知らぬ街を探検するような気分で、私は街中を見渡しながら歩いていく。 そうして、ふと目を向けた先。路地裏へと続く道に、ひとつのぬいぐるみが落ちていた。 ふっくらとした長い耳と、丸いしっぽ。ボタンでできた目で空を見上げているそれは―― 「チャビーバニーだ」 ふわふわで、どこか愛嬌のある顔つきをしたマシュマロラビットのチャビーバニー。女の子に大人気のぬいぐるみで、通称は「チャビー」。本店はここ、エミン・ヒルにあるのだけれど、新作の発売日は並ばなければ買えないというほどの人気の品だとかなんとか。 実は私も密かに狙っていたりするのだが、生憎と無一文なので、未だに買えていない。きっとこれからも、買えないだろうと思うと、ちょっとへこんだ。 でも、それが、一体どうしてこんなところに落ちているのだろう。私は狭い路地の入り口で立ち止まり、その場に屈み込んだ。 間近で見てみると、そのチャビーバニーはずいぶんとぼろぼろだった。柔らかな生地の色はくすんでいて、小さいけれど、いくつかの染みもある。鼻のボタンを留めている糸は、少しばかり緩んでいた。 一瞬、捨てられたものなのかと思った。 だけど、その耳や、手足に残っているのは、何度も何度も繕われた痕跡――大切にされていたのが、よくわかった。 ――こんなに大切にされていたものが、捨てられただなんて、今の私にはどうしても考えられなかった。 ましてや、路地裏の入り口なんかにあったから、なおさら放っておけなかったのだろうと思う。手を伸ばしていたのは、ほとんど無意識。私はぼろぼろのチャビーバニーを胸に抱えて、「L&F」へと取って返した。 「ハル!」 そう呼べば、朝の日差しを照り返して金色が揺れた。「L&F」の正面玄関を開けていたハルが、きょとんとした顔で振り返る。 「あれ? イツキ、もう帰って来たのか?」 「いや、ええと、まあ、ちょっと“落し物”を拾って」 「“落し物”?」 そう軽く首を傾げられ、私は抱えていたチャビーバニーを差し出した。 「チャビーバニーのぬいぐるみじゃないか」 「すぐそこにある路地の入り口で見つけたの。すごく大切にされてたみたいだから、きっと落し物だと思って。それに――」 あの日、あの時、路地裏に「落とされた」自分自身と重ねてしまったら、その場に捨て置くことなんてできなかった――そう言いかけた言葉を呑み込んで、私はハルの顔を見上げた。そしたら、ハルはあの日と同じように笑っていて、 「じゃあ、預かっておくよ。チャビーバニーは人気だし、落とし主もきっとすぐに見つかると思うから」 「――うん、ありがとう」 私は笑顔で頷いて、ハルにチャビーバニーを託した。 * そして今、散歩から帰って来た私の目の前で、どこかで見たような会話が繰り広げられている。 「絶対に見つからないと思ってました。観光客がとても多かったですし、ぼろぼろだから、ゴミとして捨てられてるかも、とも――本当にありがとうございました!」 「とんでもない! 無事にお返しできて何よりです」 「L&F」の正面玄関前。そこに立っているのは、ハルと女の人と、そして――あのチャビーバニーのぬいぐるみを抱えた小さな女の子。 ――「始まった」のだと、そう思った。 「お兄ちゃん、ありがと〜」 そう言って女の子が大事に抱えたチャビーバニーの手を差し出す。ハルは女の子の前に屈み込むと、チャビーバニーの手を取って、「握手」をした。 「どういたしまして。もう落とさないようにな〜」 「うん!」 嬉しそうに頷いた女の子の腕の中で、ぬいぐるみがお辞儀をするように頭を揺らす。 ――まるで、「ありがとう」と、そう言っているかのように。 私は、何か――とてもまぶしいものを見ているような気分になって、目を細めた。 いいな、と思う。失くしたものと、再び出会う、この場所――「Lost and Found」。そして、その再会の手伝いをするハルたち―― 素敵なことだと、改めて思う。 何度も頭を下げながら立ち去る女の人と、その手に引かれていく女の子をハルは笑顔で見送っていた。 「もうすっかりロスファンのお兄さんが板についたわね、ハル」 「L&F」の入り口に寄りかかって様子を見ていたアイビーが言った。それに合わせて、私も止めていた足を再び動かす。 「ただいま、ハル、アイビー」 「イツキ」 ハルとアイビーが、私に気づいて同時にこちらを向いた。 「今、ちょうど――」 「うん、見てたよ。なんか少し感動しちゃった。いいね、こういうの」 「そうだな。俺もこの仕事のこういうところ、好きだよ」 ハルとそう笑い合っていたら、アイビーが悪戯っぽく笑う。 「イツキも、ロスファンの仕事してみる?」 「あはは、冗談。私には無理だよ」 何しろ、体術も魔法もだめなら、文字の読み書きだってできないのだ。はっきり言って、仕事にならない。 もちろん、アイビーだってそれはわかっていることだ。ほんの冗談だと受け流していれば、アイビーは手にしていた腕章を持ち上げてみせた。 「それより、今日は大した用事もないから、街を巡回しようと思うんだけど、二人も一緒に行く?」 アイビーとは、何度か、巡回ついでに一緒に街を回ったことがある。普段なら、迷ってしまうからとそう遠くに出かけられない私にとって、アイビーの巡回についていくのは楽しみのひとつでもあった。 ――でも、 「今日は、やめておこうかな」 「今日」は、とても大切な日だ。『Lost and Found』の物語が始まる――大切な日。 だから、せっかくだけれど、私はここで大人しくしていようと思う。 「そう? ――まあ、それもそうよね。イツキは今帰って来たばかりだし……ハルは行くでしょ?」 「ああ、そうだな。行くよ」 「それじゃあ、この腕章つけてね」 アイビーから手渡される腕章。ハルは、それを受け取って腕につけると、ピンで留めた。 「じゃあ、行ってくるわね」 「うん、いってらっしゃい」 にこりと笑ったアイビーに、私も笑い返す。そして、はたとした。 「――あ、そうだ」 と、小さくこぼして、ハルを見やる。 「ハル、今日は女難の相が出てるかも。とりあえず、背後には気をつけて」 「は? ちょっ、それどういう意味――」 「大丈夫。ハルなら大丈夫って、信じてるから」 「何その根拠のない信頼!?」 困惑しているハルを他所に、私はその肩に手を置いて、小さくガッツポーズをしてみせた。 そんな私の背後では、アイビーが一言。 「……ハル、二股でもかけたの?」 「なんでそうなる!?」 それからしばらく、「L&F」の前ではコントが繰り広げられていたのだけれど、やがて、二人は街の巡回へと出かけていった。 |
prev. | next |